●町衆の心意気
水口町は古くから城下町・宿場町として発展してきた歴史ある町、四季折々に様々な祭りが伝えられています。
その昔より伊勢参宮路の宿場として開けていた水口ですが、安土桃山時代の天正一三年(1585年)に秀吉の家臣中村一氏が大岡山(現在の古城山)に城を築き城下町として整備したことでその後の発展の基礎となりました。
そして江戸時代、水口は東海道五十三次の五十番目の宿場町、また加藤氏の城下町として地域の政治・経済・文化の中心として発展してきました。
水口曳山祭りは、江戸時代中期の享保年間(1730年頃)、それまであった祭りの多彩な練り物の行列に町民が作った曳山が加わったのが始まりと言われ、曳山を城内曳き込み城主の上覧に供したりしました。
町民の力により作り出された祭りで、町の繁栄と町衆の心意気を示すものです。
●水口曳山祭り(滋賀県指定無形民俗文化財)
わが国には、山や鉾、屋台が登場する祭りは多くありますがいずれもその多くが江戸時代から明治にかけ城下町や宿場町を中心とした町で生まれてきました。
曳山や囃子について、今日も人々が熱い情熱を注ぐのは、それがその土地で生まれ先人の心意気で育てられ受け継がれて、常に『わがまち』の歴史と共にあると意識されてきたからではないでしょうか。
そして例年四月二十日に水口神社の例大祭としてとり行われるのが水口曳山祭りです。
祭礼には曳山が登場します。
●十六基の曳山(水口町指定有形民俗文化財)
町衆の力で作られていった曳山は、最盛期は三十基余りありましたが、現在は十六基がそれぞれの町で保有されており、滋賀県下では日野祭りと共に最も多いのです。
水口の曳山は高さ五〜六メートル「二層露天式人形屋台」という構造で、複雑な木の組み合わせや精巧な彫刻が施されています。
そして、水口の曳山の特徴は上部に「ダシ」と呼ばれる作り物を飾り、出番ごとに作り替えるところです。そして、祭礼の日に曳山の巡行に合わせ曳山の上で演奏されるのが「水口囃子」です。
●水口囃子
水口曳山祭りを引き立てる最大の演出は「水口囃子」です。囃子は単なる音楽でなく、本来その言葉通り”囃す”対象を持つものです。
「はやすもの」と「はやされるもの」、祭りに携わるものや見物人の心をゆり動かすように囃されます。
曳山の上で「はやす人」、曳山を曳いたり周りを取り巻く見物人の「はやされる人」、囃子の音と見物人達の掛け声、歓声が一体となり一気に祭りは盛り上がります。
囃子は曳山の中の二畳bかりのスペースと正面登り口で”囃子子(はやしこ)”が大太鼓、小太鼓、摺り鉦(かね)、横笛(篠笛)を用いて囃します。
緩急自在、変化豊かな勇壮なその調べは、江戸の「神田囃子」の流れを汲むものといわれています。
一説に参勤交代の水口藩士が伝えたとも言われ、関東に店を持つ近江商人(日野商人)が伝えたと言われる日野囃子と共にこれら関東系の囃子は、大津祭りなど祇園祭系の囃子の多い西日本では大変珍しく、曳山の構造・形態も「秩父屋台」など関東の曳山と相通ずるものがあります。
囃子の曲目は、曳山の巡行のスピードに合わせるかのように緩急それぞれ多くあります。そして、囃子の伝承は現在のようにテープや楽譜のない時代に、指導者や先輩の手つきや口譜で教えてもらい伝え継がれてきたものであり、曳山所有町や地域により曲目や曲調に若干の違いがあります。大別して東西の地域分けで、「東囃子」「西囃子」があり、その中でまた町毎に多少の違いがあります。
また近年「全国曳山囃子大会」や全国各地で開かれる郷土芸能大会などで水口囃子が演奏される機会が多くなるに従い、一番勇壮な特徴のある「ヤタイ」を中心とした演出・演奏が行われるため、水口囃子=タヤタイと思われがちですが、曳山の巡行に合わせ多くの曲目があります。
そして滋賀県指定民俗文化財「水口曳山祭り」の中の「水口囃子」として選択指定されています。
●伝承に苦労
現在水口囃子を伝承しているのは曳山所有町だけですが、若者の故郷離れや少子高齢化で囃子を習う子供が少なくなり、指導者の高齢化と相まってそれぞれの町ではその伝承に苦労をしています。
古くは長男だけが習うことができましたが、今では勿論そんなことはなく、また長く女人禁制でしたが今では女子にも教え曳山にも乗せています。近くの曳山所有町と合同で練習をしたり、小学校で授業に取り入れたり、全国水口囃子を習いたいと訪れる人への講習会を開くなど今日にあった伝承の努力がつづられています。
また観光協会や保存会、同好の専門集団「八妙会」など横断的な組織で演奏・指導母体を作り、保存と伝承につとめる努力も行われています。しかし個人個人の献身的な努力でやっと支えられているのが現状です。
囃子の伝承も大変ですが、それよりも「曳山」自体の保存・伝承に曳山所有町は大変な苦労をしています。
十数戸と戸数の少ない町では祭りの巡行や保存・補修経費の負担にあえいでおり、曳山と囃子両方の伝承には限界があります。公的な支援策も徐々に動き出していますが、まだまだ十分でなく、華やかな曳山の巡行や賑やかな水口囃子と裏腹に地元にとっては重い課題ですが、先人が築き伝えてきた”町衆の文化”の灯を二十一世紀に伝えていく努力を続けています。
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